小澤征爾さんを失って  村上春樹氏寄稿 2024年2月11日

 亡くなってしまった小澤征爾さんのことを思うと、いくつもの情景が次々に頭に蘇ってくる。様々な思いももちろん胸に去来し、それなりに渦巻くわけだが、それより前に浮かび上がってくるのはいくつかの断片的な、具体的な情景だ。そしてそれらのエピソードのほとんどにはユーモラスな要素が含まれている。

 

 ジュネーヴの古いコンサートホール、その楽屋で僕は征爾さんの手を思い切りごしごしと撫でていた。征爾さんはその夜、ヨーロッパの学生オーケストラを指揮したのだが、指揮を終えた直後に倒れ込んで、意識を失ってしまったのだ。まわりに医師もいないし、どうしていいかわからないので、とにかく僕は楽屋のソファに横になった彼の手を握って、「征爾さん、征爾さん」と声をかけながらその手足をこすり続けた。少しでも血行を良くしようと思って、ずいぶん長い時間。でも意識はなかなか戻らなかった。

 

 もしこのまま亡くなってしまったらどうしようと思うと、正直言ってとても怖かった。この大事な人をこんな風に簡単に失ってしまうわけにはいかない。でもとりあえず、必死に手足をこすり続ける以外に僕にできることは何もなかった。でもそうしているうちに、やがて意識は少しずつ戻り、目が開き、なんとか身体を起こせるようになった。そのときどれほどほっとしたことか。

 

 「指揮する前に、腹が減ったんで、つい赤飯をぺろっと食べちゃったんだよね」と翌日、けろりと回復した彼は告白した。「きっとそれがいけなかったんだな」

 

 当時征爾さんは癌の手術を受け、食道の一部を切除したばかりだった。重いものは食べてはいけないという厳しい指示を医師から受けていた。赤飯みたいな消化の良くないものを食べていいわけはないのだ。それでも「すごくおいしそうだったから」と赤飯をぱくぱく食べて、そのまま舞台に立って指揮してしまうのがこの人の生き方というか、あり方だった。音楽的成熟とは対照的に、子供がそのまま大きくなってしまったような部分がこの人にはあった。おかげで僕は、夏のスイスで大量の冷や汗をかかされることになった。ちなみにその夜の演奏は素晴らしいものだった。

 

 ウィーンの街角を二人で歩いているときのことだが、短い距離を歩くのにずいぶん時間がかかってしまった。というのは、征爾さんはウィーンの街の辻音楽師のほとんどと知り合いらしく、「よう、マエストロ」と声をかけられると、歩を止めてそのままじっくり話し込んでしまうからだ。だからなかなか前に進めない。でも、そういう街角の音楽家と話をしているときの征爾さんの顔は、本当に楽しそうだった。おそらくマエストロは、彼らの「自由人」としての生き方が好きだったのだろう。そんな気がした。当時の征爾さんはウィーン国立歌劇場音楽監督という重責を担っていた。言うまでもなくやりがいのある仕事だし、その栄誉ある職に就いていることを征爾さんは誇りに思っていた。しかしそれと同時に彼の中には、巨大な組織に手足を縛られることなく、広い草原を吹き抜ける風のように、自由気ままに音楽を奏でたいという強い気持ちがあったのではないか。その魂のおそらく半分くらいは、そういう世界を夢見ていたのではないか。そのような印象を僕は受けた。

 

 ホノルルのカピオラニ公園を夕方散歩していたら、前から征爾さんが一人で歩いてきた。両手に北京ダックを抱えている。「それどうしたんですか」と尋ねたら、「北京ダックが急に食いたくなって、電話で注文したんだけどさ、手違いでダブってしまって、二個も買うことになったんだよ」ということだった。そのとき征爾さんはホノルルのアパートメントで一人で生活していた。「で、どうするんですか?」と尋ねると、「まあしょうがないから、一人で食べちゃうよ、ははは」ということだった。かなり大きな北京ダックだったので、ジュネーヴの二の舞になるんじゃないかと不安に思ったが、なんとかそのときは無事だったようだ。しかし本当にあれ、一人で二個も食べちゃったのかな?

 

 そんな情景が次から次へと脳裏に浮かび上がってくる。もちろん征爾さんとはいろんな音楽の話もした。言うまでもないことだが、征爾さんは特別な才能を持った特別な音楽家だった。天才的と言ってしまえばそれまでだが、脳味噌の大部分が音楽関係の細胞でできているんじゃないかという気がするほどだった。音楽の話をしていると、その脳の働き具合の特別さに驚かされ、言葉を失ってしまうようなこともたびたびあった。彼にとっては当たり前のことなのだろうが、一般の人間にとっては――少なくとも僕のような音楽の門外漢にとっては――驚嘆すべきことが数多くあった。

 

 征爾さんがオーケストラと練習するところを見ているのが好きだった。指揮者にはいろんなタイプがいる。独裁者タイプ、教師タイプ、寡黙な人、饒舌な人、のんびりした人もいればすぐに癇癪を起こす人もいる…征爾さんはあまり感情を表に出すことなく、ゆっくりと、ひとつひとつ丁寧に細部のネジを締めていく人だった。オーケストラの出す音に注意深く耳を傾け、問題があればそれを指摘し、どこがいけないかをユーモアを交えてフレンドリーに説明し、その部分のネジを締める。それを何度も何度も繰り返して、彼の求める音を、音楽を、辛抱強くこしらえていく。

 

 そういう作業をリハーサルの現場で見るのはとても興味深いことだった。不思議なことに、彼がネジをひとつ締めるたびに、その音楽は少しずつより自由で、より風通しのよいものになっていくのだ。そのことはいつだって僕を感心させた。どうしてそんなことが可能なのだろう? ネジを締めていけば全体は硬くなる――それがものごとの通常のあり方だ。でも征爾さんの場合は、ネジをぎゅっと締めることによってその結果、驚くほどすんなりと演奏から肩の力が抜けていくのだ。そしてその音楽はよりナチュラルな、より柔軟性を持つものとなっていく。生命が吹き込まれていく。僕はそれこそが「小澤マジック」のひとつの神髄ではないかと思っている。

 

 そういうことが可能になるのは言うまでもなく、征爾さん自身の中に揺らぎない音楽像が確立されていたからだ。彼はそれをただそのまま、持てる技術の限りを尽くしてオーケストラという総合楽器に移し替え、委ねていくだけだ。そこには過度なメッセージ性もないし、大げさな身振りもないし、芸術的耽溺もなく、感情的な強制もない。そこにあるのは、小澤征爾という個人の中に確立された純粋な音楽思念の、虚飾を排した誠実な発露でしかない。彼はそれを立体的な音像として、満席のコンサートホールに鮮やかに再現することができた。作家が文体を真摯に追求すればするほど、文体自体が消えていって見えなくなり、あとには物語だけが残る――そういうことが小説の世界にはある。征爾さんの晩年の演奏は、あるいはそういう熟達の境地に達していたのではないだろうか。

 

 そんなことができる人は――彼ほどうまく自然にそんなことができた人は――他にちょっと思い浮かべられない。もっともっと小澤征爾の音楽を聴いていたかった。それがどんな方向に進んでいくのか、どこにたどり着くのかを見届けたかった。それが僕の正直な気持ちだ。あとに残された多くの過去の音源ももちろん貴重ではあるけれど、果たされなかった未来の音源の存在=非存在が僕にとっては残念でならない。

 

 「僕がいちばん好きな時刻は夜明け前の数時間だ」と征爾さんは言っていた。「みんながまだ寝静まっているときに、一人で譜面を読み込むんだ。集中して、他のどんなことにも気を逸らせることなく、ずっと深いところまで」

 

 そんなときの彼の頭には音楽だけが鳴り響いていたのだろう。おそらくは無音のうちに。総譜を開けば、そこには純粋な音楽世界が展開した。それは哲学の理念と同じように、どこまでも純粋な、それ自体で完結したものだったかもしれない。それは夜明け前の暗闇を必要とするものだったかもしれない。

 

 並べて語るのもおこがましいのだが、実を言えば僕も小説を書くとき、いつも夜明け前に起きて机に向かうようにしている。そして静けさの中で原稿をこつこつと書き進めながら「今頃は征爾さんももう目覚めて、集中して譜面を読み込んでいるかな」とよく考えた。そして「僕もがんばらなくては」と気持ちを引き締めたものだ。

 

 そんな貴重な「夜明け前の同僚」が今はもうこの世にいないことを、心から哀しく思う。